土俵に女性が上がれない問題について
どうも、ナルダルです。
最近相撲に関するネガティブなニュースが多いです。
日馬富士暴行事件から始まり、貴乃花親方の理事解任など本当に色々あります。
そんな中で舞鶴市の興行中、土俵上で市長が倒れた際に看護師の女性が救命活動をするため、土俵上に上がったところ、行司が「女性の方は土俵から降りて下さい」とアナウンスしたというニュースがありました。
まあ、当然のように大問題になってます。
それは当然問題として、その後色々なところで関連したニュースが流れています。
その一つが、「女児を土俵に上げなかった」というもの。
ちょっとこの問題について考えてみました。
舞鶴の時の問題は何か?
まず、発端になった舞鶴の問題を考えます。
まず状況
・当時、市長は心肺停止の状況にあり、救命活動をしなければ命の危険があった。
・映像を見る限り、周りの人は救命活動ができる人はいなかった。
・女性は看護師で救命活動のスキルを保有していた。
つまり、市長の容体は一刻を争うものであり、かつ周辺には医療の心得のある人はおらず、女性が手を貸さなければ、まともな救命活動ができたとは思えない、ということです。
ここで行司が「女性は土俵から降りて下さい」とアナウンスを行った、と。
こうなると、「相撲界は人の命よりも伝統・風習を守る方を優先するのか!」と批判されても仕方ありません。
つまり、舞鶴の時の問題は「伝統・風習 > 人の命」となっていたことが問題なのです。
女児が土俵に上がれないことの問題は?
舞鶴の事件に端を発して、各地の興行中に女児を土俵に上げないように指導がいったなどの報道がされています。
これは何が問題なのでしょうか?
新聞報道などの論調は端的に言えば「女性差別だ!」というものです。
なるほど、確かにそういう側面はありそうです。
相撲には土俵には女性が上がってはいけないという決まりがあります。
その伝統に則って運営している以上、女性を土俵に上げるわけにはいかないのでしょうが、今の時代に合っているのかという問題はあるでしょう。
つまり、ここでの問題は「伝統・風習 > 女性の人権」であると思われていることが問題なのです。
文化・伝統は差別の前に変えるべきものか?
先に述べたように、舞鶴の事件と女性を土俵に上げないという問題は微妙に問題点がズレているように感じます。
ただ、一つ言えるのは、舞鶴の際の行司のアナウンスは間違っているでしょう。
相撲協会の人が後でインタビューに答えていたように「伝統より人命優先」であるべきです。
しかし、だからといって「女性を土俵に上げてもいいようにすべき」という風に繋ぐのはどうかと思うのです。
「相撲は神事」と言われます。
つまり、ただのスポーツではなく、祭事の一つなのです。
そして、神社や寺では数千年も前から変わらない形で行われている行事がいくつもあります。
その中には、「この役は男性しかできない」「この役は女性しかできない」というものも見られます。
仮にそういった決まりを「差別撤廃」といって、無理やり廃止させたら、どうなるのでしょうか?
神事や行事というものは、昔の風習や考え方を今に伝えるものであったりします。
そういったものは古文書などと同じように、保存していかなければなりません。
相撲もそういったものの一つであるとすれば、やはり守るべきところは守らないといけないのではないかと思います。
もちろん、試行錯誤した上で撤廃するのはいいと思います。
ただ、「差別は良くないね。よし、女性も上がれるようにしちゃおう。その方が世間にも受けがいいよ。」という形で進めるのでは、昔の考え方が保存されないのではないかと心配です。
そもそも「差別がいけない」というのであれば、スポーツで男女を分けるのも、服装で男女を分けるのも差別です。
でも、今のご時世でもある程度の違いは認められています。
というか、逆に違いがあることを積極的に認める風潮です。
ですから、相撲界は「何故、女性は土俵に上がれないのか」「その決まりを破ると何が問題なのか」を説明すべきで、それができないのであれば、やはり差別ということになってしまうでしょう。
何か明確な理由があり、それは相撲というものの根幹に根差すものであれば、キチンと説明すれば、少なくともファンは分かってくれると思うのですが。
どうでしょうかね。