読書レビュー③~谷崎潤一郎「陰翳礼讃・東京を思う」~
◆書名ー陰翳礼讃・東京をおもう
◆著者ー谷崎潤一郎
◆出版ー中央公論新社
◆内容
谷崎潤一郎の代表作「陰翳礼讃」を含む11篇のエッセイによって編纂されている。
①陰翳礼讃
表題に偽りなく、陰翳を礼賛している。
明治開明の世、江戸幕府の時代から急激な欧化主義による変化を遂げる街を見て、谷崎は「日本人は陰翳を愛してきた民族なのだ」ということを認識する。
町の中に街燈がそこかしこに存在し、翳が無くなっている様子。
家も欧米風に建てられ、軒が無くなることで軒下の翳が無くなり、厠の中が白壁に覆われている状況を見て、落ち着かないと言う。
ただ「暗い」のではなく、その闇に表情を見、それを美意識のレベルにまで引き上げていたのだということを、語っていく。
今の日本は、谷崎の時代に比較しても明るくなったろう。
能や歌舞伎、浄瑠璃など日本の伝統芸能が実はどのような空間で演じられていたのか、今の時代では想像することすらできないが、谷崎はこういった伝統芸能や茶などは、昔の日本ではどこにでもあった陰翳の中にあって、初めて強い魅力を発揮するようになっているという。
ただ「明るければいい」「最先端にいけばよい」という当時の明治の進み方に疑問を持つ谷崎の視点は今の時代に、なお強く注意を促しているように感じる。
②懶惰の説
懶惰とは「怠けること」。
谷崎の時代は良くも悪くも日本が欧米を追いかけていた時代で、谷崎はその欧米的な価値観に違和感を覚えている。その一つが常に清潔で効率的に働くことが美徳という、特にアメリカ式の考え方があり、それに対するものとして東洋的な隠遁の考え方をこの話の中では出している。近年の資本主義的・効率的、そして成果主義的な風潮もおそらく谷崎が見た日本の風景とそう変わらないのであろうから、ここに書かれる内容は、まるで今の日本に対する警鐘のように聞こえる。
③私の見た大阪及び大阪人
谷崎は関東大震災に罹災し、避難の目的で関西に移住した。
それ自体、当時は極めて多い事例であり、事実この文の中にも多くの文人・芸術家も含めて関西に避難した人が多かったことが書かれている。
しかし、その後震災の衝撃が収まるにつれ、東京に帰る人がほとんどである中、谷崎は
関西に留まることになった。
それは谷崎自身が関西に魅了されたが故であり、その上でこの「私の見た大阪及び大阪人」が書かれたのである。
つまり、「関西に魅了された東京人である谷崎」が、ある程度第三者的な目線で大阪を批評していると言っていい。
関西人としては、今でも東京に行くと感じる違いが当時から存在することが語られており、文化・風習の違いを実感できる面白い文である。
「宝塚の芸名が芸者風だ」とか「関西の言葉は東京に比べて粘っこい。京都よりも大阪の方がよりその特徴がある」などだ。
おそらく関西に住む人でこういった特徴を意識することは少ないだろう。しかし、東京に行ってみるとわかるところがある。
実際、関西弁はおそらく「粘っこい」という表現が合うのだ。
大阪の気風が倹しく倹約の精神があることを谷崎は語っているが、これは現在も残る気風として特徴的であろう。事実、大阪の人と東京の人では買い物における自慢する点が違うことも、テレビなどでも大いに話題にされるところだ。
この文を読むと、「大阪は商人の町」という特徴が極めて強く感じられる。それは今でも存在する意識であるが、江戸時代がより近い時代に存在した谷崎の時代は更に強く存在したのかもしれない。
文人の鋭い視線で東京と大阪・京都との違いを語るが、これはどちらが優っているとかいう批評の意味ではない。ただ、違いを認識し、文化的にどういった背景があるのかなどを谷崎自身が実感したことを書いているのだ。
そして、それは今の時代でも感じられる違いである。