最適化(効率化)の行き過ぎは窮屈になりすぎる

どうも、ナルダルです。

 

今回は最適化について。

 

といっても、ここでは「最適化」に疑問を呈する内容です。

 

雑誌WIREDの編集長:若林恵氏の文章に刺激を受けたものです。

 

①最適化とは何か?

 

 さて、まずは「最適化って何やねん?」という向きに。

 

 最適化とは簡単に言えば

 

「最も合理的で効率的な形にすること」

 

 よく工場の生産体制なんかを構築する時なんかにも考えられることです。

 

 そういう意味では昔から行われていることなんですが、

 

 実はこれ、最近革命的に進歩していることでもあるのです。

 

 それビッグデータによる最適化です。

 

 ビッグデータとは、言葉の通り、大きな情報。

 

 ちなみにビッグデータについては以下の通り。

 ビッグデータとは、従来のデータベース管理システムなどでは記録や保管、解析が難しいような巨大なデータ群。明確な定義があるわけではなく、企業向け情報システムメーカーのマーケティング用語として多用されている。

多くの場合、ビッグデータとは単に量が多いだけでなく、様々な種類・形式が含まれる非構造化データ・非定型的データであり、さらに、日々膨大に生成・記録される時系列性・リアルタイム性のあるようなものを指すことが多い。今までは管理しきれないため見過ごされてきたそのようなデータ群を記録・保管して即座に解析することで、ビジネスや社会に有用な知見を得たり、これまでにないような新たな仕組みやシステムを産み出す可能性が高まるとされている。

IT辞典

 

 イメージとしては、

 「スマホやパソコンでやり取りされる過去~現在進行形のデータのことであり、

  そのデータ量は膨大であり、かつ様々な構造・形式を含む」

 ということでしょう。

 

 とにかく、量が多くてややこしいデータの塊であるが、

 一方でそこには人間や企業など社会のプレイヤー達の行動の結果が詰まっている

 ということでもある。

 

 そのデータを解析・分析することで、現在の人間や企業の消費行動や投資行動などの

 傾向を掴むことができることから、その傾向に沿った施策・販促を打てば、効果が

 最大化できる・・・

 ということ。

 

 最適化をする例と言えば、以下のような感じになるか。

 

 ・ある商品を売りたいと考えている時、その顧客層に関する情報を分析する。

 ・すると、20~25歳前後で一人暮らしをしている主に小売業に勤めている女性が主

  な購買層である、という結果が出る。

 ・不特定多数にたいする宣伝広告を打つより、主な購買層となる女性にアピールする

  宣伝広告・販促を行うことで、資金的にも労力的にも効率的に販売を促進できる。

 

 この考え方は、最も合理的だし、今の効率化を最優先する社会では当然重要視される

 べきものと言える。

 

②最適化が全ての社会はどんなになるか?

 

 ここで最適化が全ての社会ってどんなになるかを考えてみたい。

 

 これは先に述べた雑誌WIREDに書いてあった文章を見て、想像したことです。

 

 刺激を受けた文書を以下に引用させていただきたい。

自分のニュースフィードからデータを読み取って「最適な情報」だけを取捨選択して吐き出してくれるサーヴィスやターゲット広告といったものがもたらす効果は「フィルターバブル」と呼ばれるが、そこで問題となるのは、自分に最適化された選択環境のなかでしか選択が与えられなくなることで、自分の志向や指向や思考が一定方向へと狭められ、そこから抜け出せなくなることだ。ビッグデータアルゴリズムがはじき出した「予測」のもたらす作用を、手厳しい論者は「確率という名の牢獄」とすら呼んでいる。

 

ここでの懸念はむしろ、サッカーというゲームに最適な子どもばかりを集

 

それ以前に、最適な選択が最善の選択であるという前提には、なんの根拠もない。けれども確実に言えることはある。

彼らが、たとえ周囲になんと言われようとも、サッカーを選んでくれたおかげで、サッカーというゲームは確実に豊かになり、拡張したということだ。
世界は彼らを通して新しい熱狂、新しい価値を手に入れた。
それは、過去の「最適」からハミ出すことでしか生まれえなかったもののはずで、そのことをもって彼らは世界中の「適正ではない」子どもやオトナにだって、新しい夢を与えたに違いないのだ。

最適化という言葉には、現状をひたすら肯定し、ただ補強していくだけのような響きがある。

未来の価値が現在との差分に宿るというのが本当なのであれば、「演算された未来」というフィルターバブルのなかには、薄まり先細っていく「現在」しかない。そこでは誰も、何も成長しない。
飛躍もない。驚きもない。未来そのものが奪われているのだ。

 

  Wired 若林恵氏

 

 どうだろう?

 

 ビッグデータ、最適化という言葉を漠然と受け取っていた自分は結構ショックを

 受けた、と同時にある意味、腑に落ちた部分もあった。

 

 仕事でもそうだが、とにかく「効率的にやれ!」「無駄をするな!」「費用対効果を

 考えろ!」と言われる。

 

  当然なのだが、しかし、だからこそAIに仕事を取られるようなことになって

 いくのではないのか。

 

 囲碁・将棋の名人がコンピューターに負けるようになった今、過去に基づいた最適化

 は、人間自体の存在価値を薄めているのではないかと感じる。

 

 ビッグデータの定義の中には、通常の方法では解析できないほど膨大かつ複雑なものというのもあるようだ。

そうなると、もうそこには「人間」ではなく、初めからコンピューターが判断を下すということが前提になってしまっているではないか。

 

 そして、最適化とはイコール究極の合理化でもある

 

 果たして、合理性だけを追求した社会というのは、生きよい空間なのだろうか。

 

 確かソビエトも効率化を追求したはずではなかったか。

 

 本当に効率的な社会というのは、ある意味多様性を否定することに繋がる

 のではないかと思う。

 

 ジョージ・オーウェルの「1984年」は有名で、あそこに書かれた社会はいわゆる

 「監視国家」の恐怖というように言われますが、最適化を徹底した社会というのは、

 あの小説に書かれた社会とどう違うのか。

 

 あの社会も、「現時点での最適」を追求した結果、国民の判断力を骨抜きにし、

 大きな存在、最高の叡智とされるビックブラザーの下で機械のように動かすように

 したのではないのか、と思ってしまうのです。

 

③最適化による選択肢は現時点で選べる中で最良ではある

 が、本当の最良ではない

 

  自分も雑誌の記事を見るまでは、ビッグデータ分析による最適化はほぼ

  無条件にいいことだと思っていました。

  「効率的であること」に非常な価値を置いていたんですね、無意識に。

 

  しかし、この記事を見て、著者の意見をその通りかもしれないと考えました。

 

 「最適化し過ぎた社会ってのは、つまり過去をひたすら

  上手にトレースしてるだけの社会になるんじゃないの

  か?」

  

  革新というのは、前の時代になかったものを生み出すことで、そういったものが

 社会の形を変えてきたわけです。

 例えば、

 ・手紙を効率的に配達することばかり考えている社会で電話が生まれることはない。

 ・良い馬を育てることしか考えていないところに自動車は生まれない。

 みたいなことではないかと思うのです。

 

 ビッグデータはどこまでいっても、もの凄く立派な過去と現状の分析でしかない

 

 ということを忘れてはいけないのだろうと思います。

 

 誤解いただきたくないのは、過去の分析をないがしろにせよ、と言っているわけ

 ではない、ということです。

 

 ドイツの大統領ヴァイツゼッカーの演説で有名な「過去に目を閉ざす者は、未来に

 も盲目となる」というように、政治的・社会的な過ちは、大体過去を忘れた頃に

 起こるわけですから。

 

 とはいえ、過去・現状をトレースしているだけでは、現在の最適は選択できても

 それ以上はありえない。

 

 実はこのことを考えていて思ったのは、

 

 日本って外国の文化を吸収して自国のモノとすることに長けている

 

 ということを賛美するばかりに「改良してより良いものにする」ということに至高の

 価値を置きだしていないか、ということ。

 

 最近、革新的なことをアメリカや韓国が先にやっているように見えるケースが多く

 あるように思うのは、こういった国民的な思考が影響しているのではないかと思った

 のです。

 

 特に何も考えていないと、「ビッグデータの分析は大事だ」で終わるが、実際それは

 うまく使いこなすべきツールにすぎず、それが社会を規定するようになると、

 もの凄く窮屈な社会を到来させることになりかねない。

 

 最適化は、あくまで現時点における最良解を探す試みであることを忘れてはならない

 のだと思う。

 

 自分は強い刺激を受けました。